16時――「やっと商談が終わりましたね」馬車の中でリカルドがルシアンに話しかけてきた。「……ああ、そうだな」馬車の窓から外を眺めながら憮然とした表情で返事をするルシアン。「ルシアン様……先ほどの話、まだ気にされているのですか?」「当然だろう? 今度お会いするときは執事ではなく、奥様を同伴して来られることを期待しておりますよ。などと言われたのだからな。絶対に彼も祖父の回し者に違いない」「ルシアン様、やはり本来同伴するのは私では無かったのですね? だとしたら、すぐにでもイレーネさんを婚約者として現当主様に紹介されるべきではありませんか?」「ああ、そうなのだ。分かってはいるのだが……若干、彼女については不安なことが……ん! おい! 馬車を止めてくれ!」ルシアンの顔色が変わり、御者に命じる。「ど、どうしたのですか? ルシアン様!」突然顔色を変えて馬車を止めたルシアンに驚くリカルド。「……彼女だ!」ルシアンは馬車の扉を開けた。「え? 彼女? 誰です?」「イレーネのことに決まっているだろう!」大きな声で答えると、ルシアンは慌てて馬車から飛び降りると駆け出していく。「ルシアン様!」リカルドも慌てて馬車から降りるとルシアンの後を追う。「くそ! 一体イレーネは何をやってるんだ!?」ルシアンの視線の先には大量の荷物抱えて歩くイレーネの姿があった。しかも両肩からも荷物がぶら下がっており、町を歩く人々は奇異の目で彼女を見ている。細い身体でフラフラと歩くイレーネは見るからに危なっかしい。「イレーネ!!」ルシアンは大声で名前を呼んだ。「え? キャア!!」突然名前を呼ばれたイレーネはバランスを崩して転びそうになった。「危ない!!」ルシアンは咄嗟に背後からイレーネを支え、彼女が手にしていた荷物がドサドサと足元に落ちる。「あ……ルシアン様? お仕事はもう終わったのですか?」抱き留められながらイレーネはルシアンを見上げる。「ああ、先程終わったところ……じゃなくて! 一体君は何をしていたんだ!? 女性がこんなに沢山の荷物をひとりで抱えて歩くなんて……! 危ないじゃないか!」そこへリカルドも追いつき、イレーネが持っていた大量の荷物を見て目を見開く。「イレーネさん……まさか、たった1人でこの荷物を持って歩いていたのですか?」「はい、そうで
「イレーネ、この荷物……中に一体何が入っているんだ? 中々の重さだったのだが?」ルシアンが隣の席に座るイレーネに尋ねる。ちなみに床の上にも、向かい側に座るリカルドの隣にも荷物が置かれている。「ルシアン様、あまり女性の荷物の中を知ろうとするのは……いかがなものかと」小声でリカルドに咎められ、軽はずみな質問をしてしまったことに気付くルシアン。「あ……ゴホン! そうだったな。すまない……野暮なことを尋ねてしまって。(そうだったよな……仮にも女性、男性には知られたくない買い物だってあるだろうし……デリカシーに欠ける質問をしてしまった)すぐに反省するルシアンだったが、イレーネからは予想外の言葉が飛び出す。「まぁ、よくぞ聞いて下さいましたわ。まずはどうぞご覧下さい」イレーネは足元に置かれた紙袋の中から購入した品を取り出した。「……これは……布地か?」水色の光沢のある生地を手にしたルシアンが尋ねる。「はい、そうです。色々な布地がおいてあって、どれも目移りしてしまってつい、色々な布地を買い過ぎてしまいました。今からどのような服を縫おうか、考えるだけで楽しみです」ニコリと笑うイレーネ。「何だって? それではここにある荷物は全て布地なのか?」ルシアンは馬車に置かれた荷物を見渡した。「ええ、勿論です。布ってまとめ買いすると、結構重たいものですね。こんなに一度に沢山買ったことは無かったので意外に重くて、運ぶのに苦労していたところだったのです。本当に馬車に乗せて頂き、ありがとうございます」「「……」」そんなイレーネをルシアンとリカルドは呆れた目で見る。2人がかりで馬車にこれらの荷物を運ぶだけでも重くて大変だったのに、それをイレーネはたった1人で抱えて歩いていたからだ。(さすがはイレーネさん。本当に知れば知るほど奥が深い方だ)(信じられん……こんな細い身体の何処にあんな力があるのだ? だが、1年間の契約とはいえ、仮にもマイスター家の嫁になるのだから自覚をしてもらわなければ)そこでルシアンはイレーネを説得することにした。「と、とにかくだ。今度から買い物に行く時は誰か人を連れて行くように。仮にもそんな身なりで大量の荷物を抱えて歩いていれば周囲から目立って仕方がないからな」「あ……言われて見れば確かにそうですね。申し訳ございません……私が浅はかでした」
16時半――「大変だ! ルシアン様の馬車が帰って来たぞ!」ひとりのフットマンが慌てた様子で使用人たちのいる休憩室に駆けつけてきた。「何だって!?」「もうお帰りになったの!?」「た、大変だ!!」お茶を飲んでいた十数人の使用人たちがたちまちパニックになる。「イレーネ様がまだ戻られていないのに!!」そう、彼らが慌てる理由はただ一つ。それはイレーネが未だにマイスター家に戻っていないことだった。「ど、どうしよう……どうすればいいんだ!」「落ち着け……まずは一旦落ち着こう」「何言ってるのよ! 落ち着いていられないでしょう! もう馬車はそこまできているのでしょう?」「そうだ! まずは……」「とりあえずお出迎えだ!!」使用人達は我先にと休憩室を飛び出し、エントランスへ向かうのだった……。**『お帰りなさいませ! ルシアン様!』「あ、ああ……ただいま。珍しいこともあるものだな……一体どうしたのだ? こんなに大勢で出迎えなんて」10人以上の使用人達に出迎えられたルシアンは驚いていた。「はい。皆で集まっていたところ、ルシアン様の馬車が屋敷へ向かってくるのが目に入りました。そこで、その場にいた全員でお迎えにあがりました」リーダー格のフットマンが愛想笑いをしながら答える。そして集まった使用人達も笑顔でコクコクと頷く。頷くも……彼らの焦りはピークに達していた。(イレーネ様の所在を尋ねれたらどうしよう……)(どうか、何も聞かれませんように!)(くそ! どうして俺は今日に限って、非番じゃないんだ!)各々が不安な気持ちを抱えながら、ルシアンの言葉を待つ。「そうだったのか。なら都合がいい。数人、馬車から荷物を降ろすのを手伝ってくれ」ネクタイを緩めながら、ルシアンが命じる。「「「はい!」」」その場にいた3人のフットマンが返事をしたその時。「ただいま、戻りました」「遅くなって申し訳ございません」リカルドと共にイレーネがエントランスに姿を現した。『イレーネ様!?』使用人達が一斉に彼女の名前を叫んだ。すると……。「本日は、皆さんに行先を告げずに勝手に外出してしまってご迷惑をおかけしてしまいました。今後出掛ける際は必ず声をかけるようにしますね?」そしてイレーネは会釈した。**――19時イレーネとルシアンは向かい合わせで食事をしていた
「え? 専属メイドをつけて欲しいとイレーネさんが仰ったのですか?」ルシアンの書斎に呼び出されたリカルドが目を見開いた。「そうだ。夕食の席でイレーネが頼んできたんだ。だからリカルド。お前が彼女にメイドを選んでやってくれ」「え? 私がですか?」「ああ。……何か問題でもあるか?」「いえ、問題というか……メイド選出については、私よりもメイド長が適任だと思います。それに相性の問題とか、色々あるでしょうから最終的にはイレーネさん本人に決めて頂いた方が良いのではありませんか?」「なるほど……確かに言われて見ればそうかもしれないな」リカルドの言葉にルシアンは頷く。「よし、それではリカルド。お前の方からメイド長に伝えてくれ」「はい、分かりました」「出来るだけ、早急にイレーネに専属メイドをつけるように言うんだぞ?」(彼女は大胆な性格だ……野放しにしておけば、何をしでかすか分からないからな)念押しするルシアン。「ええ、私もそのつもりでした。お任せください」(イレーネさんにお目付け役のメイドがいれば安心だ。これで我々一同ハラハラすることが無くなるだろう)口にこそ出さないが、ルシアンもリカルドも心の中で似たようなことを考えるのだった――****翌朝6時。イレーネはいつものように部屋で朝の支度をしていた。長い金の髪をブラッシングしていると、突然部屋の扉がノックされる。――コンコン「あら? 誰かしら?」ブラシを置くとイレーネは扉を開けに向かった。「はーい、今開けますね……え?」扉を開けたイレーネは驚いた。何故なら目の前にはメイド長を筆頭に、20人近いメイド達が勢揃いしていたからである。「あの……これは一体……?」イレーネは目をパチパチさせると、メイド長がにっこり微笑んだ――****――8時「イレーネ……今日は遅いな。いつもなら7時半にはダイニングルームに現れるのに」テーブルに向かい、新聞を読んでいたルシアンは壁の時計を見た。「まさか、また何か問題でも起きたのか?」(何しろ彼女の行動は全く読めないからな……部屋に様子を見に行った方が良いだろうか)思わず立ち上がりかけた時。「ルシアン様、おはようございます。お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」イレーネがダイニングルームに現れた「あ、ああ。おはよう。それでは食事にしようか
朝食後、書斎に戻ったルシアンはリカルドを呼び出した。「ルシアン様。お呼びでしょうか?」「ああ。リカルド、今日、明日のお前の予定はどうなっている? 何か外出する予定でもあるか?」姿見の前でネクタイをしめながら、ルシアンがリカルドに話しかけてきた。「いえ? 特に外出する予定はありませんが……」「そうか、なら出かけるぞ。お前も準備をしてくれ」「え? 本日もですか? 一体どちらへ行かれるのです?」「祖父のところだ……俺に婚約者ができたことを報告に行くのだ。イレーネにはメイドが……まぁ、日替わりだがつくことが決定したのだから俺とお前が不在になったとしても……多分大丈夫だろう」「え? ええ……そうかもしれませんが、これはまた随分と急な話ですね。どうなさったのですか?」するとルシアンが眉をひそめた。「ゲオルグの奴に先を越されないためだ。一刻も早くイレーネを祖父に紹介し、俺をマイスター家の時期後継者として認めてもらわなければならないだろう?」「なるほど……確かにその通りですね。分かりました。では早急に用意してまいります。ですが当主様に会いに行かれるのでしたら、日帰りは無理でしょうね。何しろ汽車で半日はかかる場所にありますから」現当主であるルシアンの祖父は、半年ほど前に体調を崩して今はマイスター家の別荘で療養生活を送っている。「そうだ。幸い、明日から連休に入る。その間に祖父に会いに行こうと思っている。……全く、電話があれば話は早くて済むのに……」ルシアンがため息をつく。「……仕方ありませんよ。当主様にとって、電話はまだ目新しくて抵抗があるかもしれませんね。では、すぐに私も準備をして参ります」「用意ができたら、また部屋に戻って来いよ」「はい、かしこまりました」そして、ルシアンとリカルドは慌ただしく準備を始めた――****――11時「まぁ、今から『ヴァルト』に行かれるのですか?」イレーネは突然部屋を訪れたルシアンを前に目を見開いた。「ああ。君と祖父を会わせる前に、祖父と話をしてくるつもりだ。俺には君という婚約者ができたということ伝えにな」「ヴァルトは、美しい森林で有名な場所でしたよね。そちらにルシアン様のお祖父様がいらしたのですか」「そうだ。『ヴァルト』にはリカルドも一緒に連れて行く……だから、その……」ルシアンの歯切れが悪くなり、
「おとなしく待っていてくれと言われたのだから、ルシアン様が戻られるまでは何処にも出かけずにいたほうが良いわね」ルシアンたちが出かけると、イレーネは少しの間思案した。「そうだわ、生地を沢山買ってきたのだから洋裁でもしましょう」そこでイレーネは鼻歌を歌いながら買ってきた生地をテーブルの上に広げて洋裁の準備を始めた。「どの色の生地で作ろうかしら……」イレーネは、うっとりしながら生地を見つめて笑みを浮かべる。ある人物が屋敷に近づいてきていることも知らずに――****――その頃。マイスター家の扉の前にはある人物が立っていた。「今日こそ、ルシアン様に会わせてもらうんだから! その為に今まで家で必死になってレッスンを受けてきたのですもの!」意気込んでマイスター伯爵家を訪れたのは、ブリジットであった。以前にリカルドに言い含められるように帰らされてから、彼女は家庭教師からの厳しいレッスンをサボることなく受けてきた。そしてようやく堂々と外出する権利を両親から得られることができたのだ。「ブリジット様、それでは私はこちらでお待ちしておりますので」ブリジットの御者兼、付き人をしている青年がエントランスに立つ彼女に声をかける。「いいわよ。ジョージ。あなたは帰りなさい。だって何時にこのお屋敷を出るか分からないじゃない」「え!? ですがそうなりますと、お帰りはどうなさるのですか?」「タクシーに乗って帰るわ」腕組みするブリジット。最近貴族令嬢の間では目新しいタクシーに乗るのが流行になっていた。「タクシーですか……?」ジョージと呼ばれた男性は首をひねる。「ええ、そうよ。この間アメリアと外出したときに、初めてタクシーに乗ったのだけど……」そこでブリジットは言葉を切る。何故なら、町で偶然出会った女性のことを思いだしたからである。その女性というのは……勿論イレーネのことだ。「……タクシーのせいでいやなことを思い出してしまったわ。全く、あの女……あんな貧しい身なりをしておきながらマダム・ヴィクトリアの店であんなに沢山買い物をして小切手を出すなんて……」「ブリジット様? どうされましたか?」背後から声をかけるジョージ。「いいえ、何でもないわ。とにかく、ジョージ。お前は帰りなさい」そう言ってシッシと手で追い払う素振りをするブリジット。ここで彼女に歯向か
「ブ、ブリジット様。ほ、本日はどのような御用向きでこちらにいらっしゃったのでしょうか?」本日、ドアマンを勤めるフットマンがビクビクしながら作り笑いを浮かべる。「どのようなですって? そんなことは決まっているじゃない。ルシアン様に会いに来たのよ」きつい目をますます吊り上げるブリジット。「で、ですがルシアン様は本日から出張で不在なのですが……」「そんな嘘、通用するとでも思っているの? 今日こそ会ってもらうまで絶対に帰らないわよ! そんなことよりいつまで客をエントランスに立たせておくつもり? 早く部屋に通しなさい!」我儘伯爵令嬢、ブリジットは強気な態度を崩さない。「か、かしこまりました……」弱気なフットマンは心の中で泣きながら、しかたなくブリジットを応接間に案内することにしたのだった――****「何故、ブリジット様を居間に通してしまったんだ!?」リカルド不在の間、筆頭執事を努めることになった第二執事ハンスの声が詰め所に響き渡る。「そ、そんなことを言われても、相手はあのブリジット様ですよ? 断れるはずないじゃないですか!」半泣きになるフットマン。「全く……! 一体どうすればいいんだ? あの様子ではテコでも動かないだろうな……」事前にブリジットがいる部屋の様子を確認していたハンスは困ったように腕を組む。「それにしても、何故ブリジット様はルシアン様に会いにいらしたのかしら? もうイレーネ様という婚約者がいるのに……」メイド長がため息をつく。「それだ!」ハンスがパチンと指を鳴らす。「何がそれなんですか?」別のフットマンが尋ねる。「イレーネ様だよ。ルシアン様がいない今、あの方がこの屋敷の主人と考えてもおかしくないだろう? おまけに相手はルシアン様に想いを寄せているブリジット様だ。この際、イレーネ様に対応していただくのが一番じゃないか?」「なるほど! 言われてみればそうですね!」半泣きだったフットマンが手を叩く。「でも……大丈夫なのかしら……あの方は時々、大胆な行動を取られるから……」メイド長の顔に不安げな表情が浮かぶ。「だから、なおさらいいんじゃないですか。この際、イレーネ様がブリジット様にはっきり告げればいいんですよ。『ルシアン様は私の婚約者なので、もうまとわりつくのは金輪際、やめていただけませんか?』という具合に」妙に演
イレーネは上機嫌で型紙を当てて生地を裁断していた。「フフフ……こんなに素敵な布地にハサミを入れるなんて初めてだわ。今までは貰い物か安物の生地で服を作っていたから」 その時。――コンコン扉がノックされた。「あら? 誰かしら?」テーブルにハサミを置くと、イレーネは扉を開けに向かった。「お待たせしました。あら? あなたは確か……」扉を開けると、目の前にはメイドのアナが立っている。「はい、イレーネ様。私は本日、イレーネ様のメイドを務めさせていただきますアナと申します。よろしくお願いします!」元気よく挨拶をするアナ。「アナさんね? はじめまして。こちらこそ、これからよろしくね。でも今のところ、手伝ってもらうことは何も無いので大丈夫よ。何かあるときは呼ばせていただくわね?」笑顔でイレーネは扉を閉めようとしたので、アナは慌てた。「あ! ちょ、ちょっとイレーネ様! お待ち下さい!」「え? 何かしら?」扉をしめかけたイレーネは首を傾げた。「実は、ルシアン様に会いにお客様がいらしています。ですが、ただいまルシアン様は不在ですよね?」「ええ、そうね」「それで、代わりにイレーネ様がお相手して頂けないでしょうか? ルシアン様が不在の今、このお屋敷の代理主人はイレーネ様を置いて他にいらっしゃいませんので」アナの言葉にイレーネは少し考えた。(私はルシアン様と1年間の雇用関係を結んだだけの関係。けれど、それでも仮とは言え妻になるわけだし……)「分かりました、そういうことでしたらお客様のお相手をさせていただきます」イレーネはにっこり笑みを浮かべる。「本当ですか!? ありがとうございます! お客様は居間でお待ちになっております」「あまりお待たせするのはいけないわね。ではすぐに案内してもらえる?」「はい! イレーネ様!」「それで、どなたがいらしたのかしら?」イレーネは廊下に出ると、尋ねた。「はい。その方は……」アナはブリジットの名を口にした――****「……全く、いつまでこの屋敷の人たちは待たせるのかしら。今日はリカルド氏もいないみたいだし……あら? 美味しいお茶ね」ブリジットがティーカップに口を付けた直後……。「お待たせ致しました、ブリジット様」イレーネが居間に現れた。「え? あなたは誰?」突然現れた見知らぬ女性に、ブリジット
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで
高級ホテルの一室で、ベアトリスが台本を呼んでいると部屋の扉がノックされた。――コンコン「帰ってきたようね」台本を置くと、ベアトリスは早速扉を開けに向かった。ドアアイを覗き込むと、すぐにベアトリスは扉を開けて訪ねてきた人物を迎え入れた。「お帰りなさい、カイン。入って頂戴」「ああ」カインは頷くと部屋の中へ入り、疲れた様子でソファに座った。「お疲れ様、それで家の様子はどうだったのかしら?」カインの向かい側のソファに座ると早速質問する。「君は、あの家は空き家になっているだろうと俺に言ったが、人が住んでいたぞ? しかも女性だ」「え? 嘘でしょう?」その言葉にベアトリスは目を見開く。「嘘なものか。あの家には若い女性が住んでいた。ブロンドの長い髪が印象的だったな。……かなり美人だった。それに何故か警察官がいて、職務質問をされたよ」「そんな……あの家に人が住んでいたなんて……まさか、ルシアンは家を手放したっていうの? ずっとこの家は残しておくって約束してくれていたのに……」ベアトリスは悔しそうに唇を噛む。「俺が職務質問をされた話はどうでもいいのかよ……? まぁいい。どうせ君は俺には興味が無いのだからな。家を残しておくという話は2人が恋人同士だった頃のことだろう? とっくに手放していたっておかしな話ではないはずだ。そもそも彼を捨てたのは君の方だろう? ベアトリス……まさか、まだその男に未練があるのか?」眉をひそめるカイン。「……あの時は、別れたくて別れたわけじゃないわよ。彼の祖父は私のことを軽蔑して、私達の仲を反対していたのだから。それに、舞台のオファーは私にようやく回ってきたチャンスだったのよ」「だから、引き止める恋人を捨てて渡航したんだろう? 置き手紙一つだけ残して」「そうよ……だって、本当に必死だったのよ。失ったものは大きかったけど、私はこの通り成功したわ。それも今では世界の歌姫と呼ばれるほどにね」「それで今回かつての恋人がいた地『デリア』に来て、未練が募ってきたってわけか?」「別に未練だとか、そういうわけではないわよ!」ベアトリスはカインを睨みつけた。「だったら何故俺にあの家の様子を見に行かせた? まだ彼が自分を忘れられずに家を手放していないと考えたからだろう?」「……」しかし、その問いにベアトリスは答えない。「君は置
リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早
――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ
「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ
イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美
あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの